ようやく一日の仕事を終えて自室に爪先を向けたとき、回廊の柱の影から名前を呼ばれた。 「珠翠殿」 「……藍将軍」 にこやかに近づいてきた武人を思わず睨んでしまったのは、ただでさえ忙しい仕事に輪をかけている当人だったからに違いない。 険しい眼差しで振り返った自分をみて、その男―――藍将軍はちょっと困ったような顔をした。 「珠翠殿。そのように厳しい表情も魅力的ですね。でも私としては笑顔で応えていただけたらもっと嬉しいのですが」 「そうですね。貴方が女官達にちょっかいをおかけにならなければ、私ももう少し愛想よくできるのですけど」 季節が春から夏へ、夏から秋へと移り変わろうとも、この男の頭の中の季節は変わらないらしい。 日ごろから彼の魔の手から女官達を守っている珠翠にしてみれば、心の底から迷惑な話だ。 李侍郎が常々友人を指して「常春頭」と叫んでいるが、まったくもってそのとおりだと顔をしかめてみせる。 「うっ…ゴ、ゴホン。それを言われると返す言葉がありませんが…まぁその話はおいておいて」 この人の頭の中の季節も現実に沿って移り変われば少しは仕事が減るものを―――なんて苦々しい気持ちで藍将軍を見ていると、あからさまな嫌味に一瞬ひるんだ男は、空咳をひとつすることで体勢を立て直した。 「頂き物ですが、どうぞ」 ややぎこちない笑みとともに、差し出された一輪の花。 武人らしい大きな手が添えられたそれは、一見すると小さな百合のようだ。 紫の地に斑点か散った小さな花は、華やかな雰囲気をまとう藍将軍の贈り物しては素朴すぎる。 「なんですか。これは」 意外な組み合わせに意表をつかれたものの、数々の女官と浮名を流している男からの贈り物なんて、一度もらったら後でどんなことになるかわからない。 警戒心と不審から受け取るのをためらっていると、淡い苦笑を浮かべた藍将軍は、今朝方執務室で繰り広げられた顛末を手短に語った。 「―――というわけで、主上の執務室に飾るだけではもったいないと頂いてきたのです。やはり花は女人にこそ映えるものでしょう?」 ただのおすそわけですと片目をつむる気障な仕草が嫌味じゃないのは、あまりにも自然に行われる行為のためか。 吏部尚書の奇行に困らされた李侍郎と、執務室での三人のやりとりが目に見えるようで、珠翠は思わずくすりと笑った。 「……そういうことでしたらいただきます」 「ええ是非」 下心がないのなら嬉しい贈り物だ。 風の狼として暗躍してきた珠翠も職務を離れればひとりの女人である。 花を贈られて嬉しくないはずがない。 今度こそありがたく受け取ると、藍将軍は傍目にも判るぐらいに満足そうに表情を緩めた。 「受け取っていただけてよかった………この花は貴方に私の手からお渡ししたかったので」 白い手に収まった花へと視線をうつし、どことなく照れくさそうに瞳を瞬かせる。 ぼそぼそと独り言のように呟かれた後半は、口内に篭ってよく聞こえない。 「えっ?」 「いえっ…その………なんでもありません。お引止めしてすみませんでした」 なんですかと見上げると、無意識の呟きだったのだろう。 はっと我に返った男の藍の衣がうろたえたように翻った。 そのまま去りかけた袖口を、珠翠は慌てて捕まえる。 「あっ藍将軍」 まだお礼も言っていない。 お待ちくださいと軽く袖を引けば、男の足が躊躇いがちにとまる。 困ったように振り返った将軍は、珠翠の手をとると優しく袖から外しながら微笑んだ。 「いいえ。本当になんでもないのです。どうぞお気になさらずに」 「いえ、そうではなく…」 「それではこれで」 珠翠にしてみれば礼を言いたかっただけだ。 しかしどことなくきまりわるい顔をしている将軍は口を開かせてくれない。 会話を避けるように礼をとった将軍に、珠翠もおもわず反射的に頭をさげる。 「藍将軍」 一寸後頭を上げてみれば、ちょうど衣の端が曲がり角に消えていくところだった。 男性はもともと女人に比べて足が速いものではあるが、それにしてもいやに早足である。 その背を追って一歩踏み出しかけたものの、途中で思い直した珠翠は、手の中の花に視線を落とした。 「………なんだったのかしらね?」 結局お礼を言い損ねてしまった。 彼とはほぼ毎日のように顔を合わせているのだから、謝礼の機会はすぐにあるだろうが、それにしてもなにをあんなに急いでいたのだろうと首をひねる。 (たまに挙動不審だわ……あの人……) 藍楸瑛という男はいつも隙のない武人である反面、時たま変な人でもある。 それが珠翠の前だけなのか、他の人の前でも同じなのかはわからないが、さっきの行動もその類なのかもしれない。 いつものことかと結論づけた珠翠は、花に向かってにこりと微笑んだ。 「可愛いわね」 贈り主である藍将軍の雰囲気にはそぐわないが、素朴で可憐な様子がいい。 普段は迷惑ばかりかけられている人ではあるけれど、主上から頂いた花を自分にと考えてくれたことは素直に喜ばしい。 できれば笑顔で応えていただけたら――― 可憐な花を見つめているうちに、ふと先ほど聞いたばかりの台詞が耳によみがえり、珠翠はちょっと眉を下げた。 (別に好きでしかめ面になっているわけじゃないけど……) でも確かに藍将軍と相対するときはいつもしかめ面をしている気がする。 原因があるからこそ結果があるものだけれど、そう―――せめて明日ぐらいは笑顔でお礼を言うべきかもしれない。 「………貴方をもらっちゃったしね」 たぶん女人の扱いに慣れた男の、なにげない思いつきなのだろうけれど。 ちょっとした心遣いが嬉しいときもある。 ちょんとつつけば、花芯に伝わった衝撃で可憐な花が上下に小さく揺れた。 その様子がまるで「そうだよ」と頷いているようで、瞳を和ませた珠翠は喉の奥でやわらかく笑った。 珠翠難しい…。 無駄に続きます。 TOP/ モドル/ ススム |
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