「………」
パチっと目を開けた絳攸は、しばらく呆然と閨の天井を見上げていた。
まるで当時を体験しているように、鮮明な夢を見ていた。
それは懐かしくも慕わしい思い出。
突然蘇ったきらきらと眩しい季節の記憶は、目覚めたいま、温かくも切ない余韻となって胸に渦巻いている。
(そうだ…なんでいままで忘れていたんだ…)
その事実に愕然としながらゆっくりと瞬く。
あの遠い夏の日。
子供だった絳攸がであった、小さな友人。
ほんの数日だったが『紅家の養子』ではなく『ただの子供』として楽しく幸せだった日々はすぐに終りを迎え、あれ以来、絳攸は一度も夏の別邸を訪れたことはない。
それでも最初の一年、二年は、夏になるたびにあの庭院での出来事を思い出していた。
しかし官吏になるために猛勉強を始めてからいつしか記憶は曖昧になり、気がつけばすっかり忘れたままでいまに至っている。
たったいま夢にでてきた小さな友人。
その姿と声、そして唐突にもどってきた記憶を反芻しながら、絳攸はそっと上半身を起こした。
(よく寝てるな…)
隣では、枕に顔を埋めて楸瑛が静かな寝息を立てている。
男のむき出しの腕は絳攸の体を抱きしめるように回されており、その腕を静かにどけてから床に落ちていた夜着を拾い上げる。
忍び足で臥台を抜け出した絳攸は、続き間の奥、ひっそりと闇に沈んだ戸棚の引き出しをそっと開いた。
(あった…)
引き出しの中には、古びた色紙の貼られた箱が一つ。
絳攸が小さい頃に、特に大切なものをしまっておいた宝箱だ。
この箱も、同じ頃、珍しく黎深が絳攸に手土産を買ってきた折に、嬉しくて嬉しくて、中身を出したあと後生大事にとっておいたものである。
「そうだ…ここにしまっておいたんだったな…」
掌に収まる大きさの小さな箱を開いて見れば、中には小ぶりの石が一つ。
太陽の下でみれば綺麗な青色の、真ん中に一本白い筋が入った、何の変哲もない、それ。
しかしあの頃の絳攸にとっては、何にも代えがたい宝物だった―――








明日は貴陽に帰る日の夜。
すっかり身の回りの荷物をまとめおわったぼくは、臥台でうつらうつらと眠っていた。
いつもは布団に入るなりぐっすりと眠って、気がついたら朝ということがほとんどなのに、何故かその夜はいつまでたっても寝付かれなくて、ようやく夢を見始めたころに、ぼくは誰かに呼ばれている気がして目をあけた。
「……?」
風を通すため開きっぱなしの半蔀から、しらじらと差し込む様の光が、暗い室内をほの明るく照らしている。
目を擦りながら起き上がったぼくは、きょろきょろと部屋の中を見回した。
(誰もいない…)
立派なお部屋には臥台と卓と椅子、そして壁際に低い戸棚が一つあるだけだ。しーんと静まり返った中で耳を澄ましてみたけれど、聞こえてくるのは庭院で鳴く梟や虫の声。
昼間、しゅうえいとさよならとしてから、ぼくはひとしきり泣いた。おかげで瞼は熱をもったようにはれぼったいし、気持ちが高ぶっているのが自分でもわかる。そのせいで寝付けなかったのだろう。
(やっぱり気のせいだったのかな…)
誰かが―――もしかしてしゅうえいが呼んでいるのかもしれないと、一瞬期待してしまった。
でもそれはただの幻聴だったらしく、小さく息をついて改めて寝ようと横になる。
枕に頭を預けて、目をつむろうとしたその時。
「!」
思いがけず「よいしょ」という掛け声とともに、臥台の端っこにひょいと小さな影が姿を現した。
え、と目を見開くぼくの前へ、ふかふかの臥台の上を歩きにくそうにやってきたその人は、月明かりの中に姿をさらけだしたところで、やあと片手をあげた。
「絳攸。起きてたね」
「しゅっしゅうえい!?」
「しっ。声が大きい」
「!」
跳ね起きたところにすかさず注意をされて、思わず両手で口を押さえる。
目を白黒させているぼくにむかって悪戯っぽく片目を瞑る彼は、まちがいなく離れの小人、しゅうえいだ。
担いできた風呂敷を下ろして、ふーと長い息をついた彼は、重かったというようにぐるぐる肩を回した。
「やれやれ、君の部屋はなかなか遠いね。今夜中に間に合うか、ちょっと心配になってしまったよ」
冗談めかした口調で伸びをする、その腰にはいつもはない剣を刷いている。珍しい姿に、ついじっと見つめていると、視線を追ったしゅうえいは、ああと頷いた。
「借りに行くときは持って行くんだ。外ではなにがあるか分からないからね。よく切れるいい剣なんだよ」
言うが早いが、澄んだ音とともに鞘走る。
剣を構えた彼が滑らかに動くたびに、光を反射して刀身かきらきら輝いて、ぼくはびっくりしつつも、その洗練された動作に見蕩れてしまった。
「しゅうえい、すごいね! かっこいいよ」
「はは、そんなふうに褒められると照れてしまうね。ありがとう」
チンと音を立てて剣を収めたところで控えめに拍手を贈ると、気障な仕草で一礼したしゅうえいは、臥台に置いた風呂敷の側にかがみこんだ。
「そんなことより。君にこれを渡したくてここまでやって来たんだ」
「なあに?」
「うん、はい、これ」
笑顔で差し出されたそれを受け取って、指に摘んで月光にすかしてみる。
いびつな楕円のそれは、黒っぽい色をした石で、真ん中に刷毛で刷いたような白い筋が一本浮かんでいる。
暗いからわかりづらいけどねと前置きした楸瑛は、枕を登るとちょこんと腰掛けた。
「明日、太陽の下でみてごらん。この石は、とても綺麗な青色をしているんだ」
「青色?」
「そう、ほら、私の衣と同じ色だよ。私はね、この色がとても好きなんだ。昔、貴方に似合うと褒めてくれた人がいてね」
「そうなんだ…」
確かに、しゅうえいはいつも綺麗な青い衣を着ていた。
絵で見た海のような、晴れ渡った真夏の空のような、明るくて鮮やかな青。
確かにその色は、彼にとても似合っている。
「ぼくもそう思うよ」
「ありがとう。だからこれを君にあげたくて。………この石があれば、君も私を忘れないだろう?」
「あ…」
はっと振りかえったぼくを、しゅうえいはじっと見つめている。
君が私を忘れないでいてくれたら、きっといつかまた、会えるよ―――人に見つかってはいけないという彼に、一緒に来てとはいえなかった。だからまた会いたいと願ったぼくに、彼が約束してくれた言葉。
(そうか、それで……)
このためだけに、わざわざあの遠い離れからここまで来てくれたのだ。
「ありがとう…」
「うん」
嬉しくて嬉しくて、ぎゅっと掌に石を握り締めると、彼も満足そうに微笑む。つかのま見つめあって微笑みあったところで、ぼくは控えめにお願いを口にした。
「ねえ、しゅうえい。今夜は一緒に寝てくれないかな…」
「え?」
「だって、明日からはもう会えないから…だから、せめて今夜ぐらいはいっしょにいたいんだ」
まさかもう一度会えるとは思わなかったから、このまま別れてしまうのが名残惜しい。駄目かな、と瞬くと、ちょっと考えたしゅうえいは、ややあって快く頷いてくれた。
「いいよ。私も、絳攸ともう少し一緒にいたいから」
そう言った彼の声はちょっぴり嬉しそうで、ほっとしたぼくは、すぐに伺うように彼を見た。
昼間、さようならをした時、彼はなんでもない顔をしていたけれど、もしかすると、本当は少し寂しかったのかもしれない。そのことを控えめに訪ねると、枕を並べた彼はそうだねと苦笑した。
「寂しくないといったら嘘になるかもしれないね」
「うん…」
「きみが帰ってしまったら、私はまた一人だ。―――でも私はここが好きなんだよ」
ころんと寝返りを打って、ぼくの顔を覗きこむ。
そうしてヒラヒラした衣を揺らし、さっきも話したけれど、と続ける。
「なにより私に青が似合うといってくれた人との思い出が、ここにはたくさん残っているからね」
「その人って?」
「君と同じく、紅家の人だった。もうずっと前のことだけど、あの離れによく遊びに来ていたんだよ」
意外な告白に驚くぼくにちょっと笑いかけて、目を細めた彼は、昔を思い出すように遠い目をする。
その後、彼が話してくれたことは、ぼくにはとても意外なことで、そしてまた、何故しゅうえいがぼくの前に姿を現したのか、納得するには十分な内容だった。
「その人はね、実は君のひいおじいさんの奥方でね…」
しゅうえいの話によると、彼とひいおじい様の奥さん、つまりひいおばあ様と初めて出会った場所が、あの離れだったらしい。
その頃、小人の掟にしたがって、人間にはみつからないように十分注意していたしゅうえいは、ある日、ひょんなところで彼女に見つかってしまった。
もちろんひいおばあ様は驚いたし、しゅうえいも逃げようとしたんだけれど、その日以降、彼女は毎日姿を見せては、しゅうえいにそっと呼びかけていたんだそうだ。
それで最初は警戒していたしゅうえいも、気になる日々を送るうちにひいおばあ様に興味がわいて、二度目に会って話をしてからは、彼女が別邸に来るたびに、友達として親しく付き合っていたらしい。
「その彼女はね、君とよく似た髪の色をしていて、よく笑う素敵な人だった」
「あ……」
「正直なところ、それで君にも興味がわいたんだ」
しかし長寿の小人族と人間では年をとる速度が全く違う。
しゅうえいにしてみればあっという間に彼女は年老いて、いつしかぱったりと別邸を訪れることがなくなってしまった。
その頃、しゅうえいが人間と付き合うことをおもしろく思っていなかった仲間も離れを去り、結果、彼は一人離れで暮らすようになった。
その離れもだんだん使用されることなく朽ちていき、そうしてどのくらい経っただろう。
ある日、ふいに開いた扉の向こうから姿を見せた子供。
興味津々に室内を見回していた彼の髪は、思い出のなかの人と同じ色をしていた。
それであの日、懐かしさと驚きで思わず声をかけずにはいられなかったんだ―――そう締めくくったしゅうえいを見つめて、ぼくは小さく訪ねた。
「しゅうえい…しゅうえいは、ぼくに一人じゃないって言ってくれたけれど、しゅうえいはどうなの。一人ぼっちは嫌じゃないの…?」
もし嫌だとか、辛いとか。
そんな答えが返ってきたら、一緒に行こうと誘ってみよう。
貴陽のお邸は、ここ以上に立派なところだし、しゅうえいが気に入る部屋もあるはずだ。
そこでまた『借りぐらし』をして、時には一緒に遊んで、話をして、生活できたらどんなに素敵だろう。
昼間、口にしないでおこうと思っていた願いがむくむくと頭をもたげてくる。
密かに息を詰めて待っていると、ちょっと考えるように天井をみていたしゅうえいは、すぐに小さく微笑んだ。
「いや……そんなことはないよ。私には彼女との思い出があるし、新しく君との思い出もできた。それに―――」
「それに?」
「言っただろう? 君が私を忘れないでいてくれれば、きっとまた会えるって。幸い、私の寿命はとっても長いからね。その日を楽しみに待っているよ」
「………」
うん、と呟いた返事は声にならなかった。
慌てて顔を背けて、頭まで引っ張り上げた掛け布の中で、かろうじて頷いてみせる。
(……しゅうえい……)
わかっていたことなのに。
一度は諦めたはずなのに。
へんな期待をもってしまったせいで、またもや瞼が熱くなってくる。
「絳攸」
布越しに、気遣うようにぼくを呼ぶ声がする。
しゅうえいに心配をかけたくない。だからはやく顔を出さなきゃと思うけれど、こんな顔も見られなくない。
きっといまのぼくを見たら、彼はぼくを本当に泣き虫だと思うことだろう。
だから返事のかわりに、布越しでもはっきりと分かるぐらいに大きく頷いて。
布団から出した右手の中の石を、ぼくはぎゅっと握り締めた。

「ぼくも、また、会いに来るからね―――」



モドル/ ススム







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