最初の記憶は、大人同士の怒鳴りあう声。 何かが倒れる大きな音。その騒音に混じって、子供の泣く声がする。その甲高い声は、もしかすると自分の泣き声だったのかもしれない。 記憶はどれもこれも朧で、次に繋がる場面では、視界一杯に汚い床が広がっている。 ぼろきれのような服を着て、荒れた手で床を磨いている。 そしてやっぱり聞こえるのは誰かの泣く声。 その後も、その後も―――繋がるたびに増えていく場面は、どれもこれも灰色に霞んで歪んでいる。 そしてあの冬の日―――。 「そこで何をしている」 突然目の前に現れたその人は、立派な衣をまとって、えらそうな態度で、てっきり神様だとばかり思っていたら人間で。ぼくを無理やり馬車に乗せて、綺麗な女の人の看病をしろと命令して、あったかいお風呂と、清潔な衣と、お腹いっぱいの御飯を与えてくれた。 そしていま、ぼくはその人の「子供」だ。 まるで夢みたいな生活。 夢見たいな現実。 でも――― 「れいしん様はね。とっても綺麗な黒髪なんだ」 真っ直で癖のない、漆黒のそれ。 れいしん様だって、くろう様だって、そして絵姿で見た百合さんのお母様だって、みんなきれいな黒髪をしている。 その色は紅家の証だと聞いたとき、鏡に映る自分の髪を見て泣けてしまったのは、たぶん、ぼくがどう頑張ってもその色になれないと分かってしまったからだ。 でも、もしそれが無理でも、せめて百合さんのような優しい柔らかな色をしていたら。こんなに冷たい、誰にも似ていない、一目で他人と分かるような髪じゃなかったら―――もっとお二人の子供らしく、堂々と振舞うこともできたかもしれないのに。 (ううん、そうじゃない。そういうことじゃなくて…) 髪のせいなんかじゃない。 そんなことはわかっているけれど、胸の中に渦巻く気持ちを上手く言葉に表せない。 少しでもれいしん様のお役に立つように、百合さんが喜んでくれるように。 勉強も頑張っている。礼儀作法もきちんと守っている。できることはなんでもやって、出来ないことは出来るように努力している。 だけど、だけど――― (どうしていつも、こんなに不安なんだろう…) 物心ついたときからぼくは一人だった。 売られて売られて、れいしん様に出会ったときは、死ぬ一歩手前だった。 れいしん様が拾ってくれて、百合さんに優しくしてもらって、いまはとても幸せだ。幸せなのに。 どこかでいつも怖がっている。幸せを否定したがっている。そんな自分が嫌なのに、消してしまいたいのに、やっぱりどこかで覚悟しているのだ。 いつかまた 捨てられるかもしれない――― それが怖い。 怖くて怖くて仕方がない。 信じたいのに、信じたいと思っているのに。 どうしても怖くて仕方ないんだ。 「絳攸」 堰を切ったように目からは涙が溢れ出す。 拭っても拭っても止まらない暖かい液体は、見る見るうちに手を、袖を、そして膝の上の小人さんを濡らしていく。 泣きじゃくりながら胸に抱えていたどろどろしたものを吐き出すと、黙って話を聞いてくれていた彼は優しくぼくを呼んだ。 真っ赤になった目を上げてみれば、涙の雫を被ったのだろう。綺麗な青い着物のあちこちが濡れている。 慌てて謝ったぼくにいいよ、と笑って、しゅうえいは、ごめんねと小さく謝った。 「私には君にかけてあげる言葉を知らないよ」 ううん、そんなことない。 しゅうえいが謝ることなんてないんだ。 そういいたいのに、言葉は胸にひっかかってでてこない。 かわりにこぼれてくるのは嗚咽だけ。 しゃくりあげるぼくが落ち着くのを待って、でもね、と柔らかくぼくに触れる。 「私は君の髪の色が好きだよ。本当だ。この色は私にとって特別だから。それに―――」 冷たく誰にも似ていない色の髪を、慰めるようにゆっくりと梳いて。 「うん」 「君は一人じゃないよ」 「……うん」 一人じゃない。 慈しむように、愛しむように。 髪を梳きながら、自分は一人だと教えてくれた彼は、いま、どんな気持ちでこの言葉をいってくれたのだろう―――そんなことをふと思った。 繰り返される言葉は、ぐしゃぐしゃな心に温かく広がっていく。その一方でチクンと胸が痛んだのは、彼の声があまりにも優しすぎたから。どこまでも温かかったから。 (しゅうえいだって一人じゃないよ) 心から慰めてくれる彼に、でもどこか切なそうな彼に。 そう言ってあげたかったけれど、しかし激しくこみ上げる嗚咽に、出しかけた言葉はかき消されてしまった。 モドル/ ススム |
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