※彩雲国物語絵巻2掲載の「逢引の相手は…」のネタバレを含みます。



「うわっ!」 前を歩いていた絳攸が、突然悲鳴をあげて飛び退った。

「どうした!?」

一歩遅れて続いていた楸瑛が、横っ飛びに後退した絳攸を振り返る。
直後、気配を感じた楸瑛が頭で考えるよりも先にその場から飛びのくと、なにか黒い塊が目の前を通り過ぎ、2.3メートル後ろに落下した。

「なんだ、これ。泥…?」

おそるおそるといった様子で、地面に叩きつけられた物体を覗いた絳攸が小さく呟く。
注意がそれた瞬間、同じ物体が絳攸の右脚を直撃した。

「絳攸!」

楸瑛が振り返ると同時に、まるで雪合戦の雪だまのように、泥玉が進行方向の曲がり角から飛んでくる。かなりの数の泥球が楸瑛めがけて集中砲火のごとく降り注いだが、そこは武人。華麗によけて絳攸のもとへ走りよった楸瑛は、こっちだとその手を引いて走り出した。








「…どうやら私たちを邪魔したい誰かがいるみたいだね」
「そ、の…ようだ…な…」

軽く息を乱した楸瑛が、いま逃げ出したばかりの路地を振り返ると、せわしい息使いの合間に絳攸が額の汗をぬぐいながら頷いた。
日ごろから鍛錬を怠らない武人である楸瑛とは異なり、机案に向かっていることが仕事の絳攸の息は、先ほどから繰り返されている逃走ですっかりと上がっている。
ぜえぜえと苦しそうに膝に手をやり、空気をむさぼっている友人の背中を撫ぜてやりながら、いったい誰がこんなことを楸瑛は眉をひそめた。

ことは藍家に迎えに来てくれた絳攸の軒の車輪が、藍家を出ようとした瞬間に外れたことから始まった。走り始める前だったからよかったものの、走行中に外れたら軒は横転し、大怪我をするところである。
そのときは単に部品が外れたためにおきた事故だと思ったが、こうも変事が続くと首を傾げたくなるのも道理で、先ほどのように明らかに二人の行く手を阻もうとする意思と戦い始めてからすでに数刻。藍家を出たときにはまだ茜色に染まっていた空も、いまやとっぷりと暮れ、深更に近い時間帯になってしまった。

紅家の軒がだめになってから、代わりに藍家の軒で出発したものの、さほど行かずにこちらの軒も馬をつなぐ車軸が突然折れた。楸瑛が見たところ、折れたというよりも鋭利な刃物で叩ききったような切り口で、御者に聞いてみたところ、一陣の風を感じたとたんに折れていたという怪しさである。新しい軒をお持ちしますと馬を引き連れ戻っていた家人を待つものの一向に戻ってくる気配がなく、それならばと道行く軒をとめようとするが、ことごとく空いていないと断られた。
仕方なく徒歩で紅家本邸に向かったが、紅区と藍区はひたすら遠い。なるべく近道をと思って選んだ道では荷馬車が横転していたりいきなり大穴が開いていたり、道中に逃げ出してきた鶏がけたたましく泣き喚いているかと思えば、大勢の女子が待ち伏せていてなぜか熱烈に追いかけてきたり、とにかく邪魔邪魔邪魔の連続で、ちっとも紅家本邸に近づけず、遠回りに遠回りを重ねて、ようやく近くまでやってきたと思いきや、先ほどの泥玉襲来である。
この変事の裏に誰かの(きっととても意地の悪い)意図を感じても無理はないだろう。

「…楸瑛」

ようやく呼吸がととのって、顔をあげた絳攸が名前呼ぶと、難しい顔で周囲を見廻していた楸瑛は肩をすくめて笑った。

「お互い酷い有様だね」
「…そうだな」

先ほどの泥玉で、右足と胸、背中を直撃された絳攸の顔には、跳ねた泥がこびりついている。
一方の楸瑛も鮮やかな藍の着物のそこかしこに、泥玉の被弾した跡がついている。
派手に汚れてしまった着物に目を向けて、絳攸はすまなそうに眉を下げた。

「その…悪かったな。俺をかばったせいでお前まで汚れてしまった」
「いいんだよ。私は武人だからね。誰かを守るのが仕事だから。それに私の魅力は着物が汚れた程度では色あせないよ」
「………」

こんなときでも楸瑛の軽口はやまないらしい。
相手にするのも疲れると絳攸がそっぽをむくと、真新しい手布が差し出された。

「顔の泥。拭くといいよ。暗くて目立たないと思うけど、百合さんがみたらびっくりするかもしれないから」
「…この姿を見て驚かないとは思えないが」
「それもそうか」

今更顔の泥がなんだというほどに、ふたりとも泥だらけになってしまっている。
それでも素直に礼を言って手布を受け取ると、楸瑛の顔つきが引き締まった。

「さて。これだけ妨害が入るとなると、これはもう誰かの仕業といってもいいと思うのだけど」
「同感だ。それにこんな底意地の悪いことをする人物に一人心当たりがある」
「きっと私と同じことを考えていると思うよ。この妨害の黒幕はたぶん…」

目と目を交し合い。はぁっとため息をつく。

「紅尚書だろうね…」
「黎深様だろうな…」

軒が立て続けに壊れたときから、うすうすそんな気がしていた。
あれほど鮮やかに車軸を切ってのけるのは、並大抵の腕じゃない。
武人でない絳攸にもわかるほどに見事な切り口と、御者にも姿を見せないで事を成し遂げる隠密性―――紅家当主絶対服従集団影が動いていることは間違いない。
自分で呼びつけておいて邪魔をするとは、いったいどういう思考回路が働いているだろうか。
黎深は天つ才を持つ男だ。
自分程度の人間には所詮彼という人間を理解できないのかと、絳攸はしょんぼりと肩を落とした。

「楸瑛。影が動いているとなれば、黎深様は本気だ。俺たちを紅邸に迎え入れる気はないらしい。ここまで付き合ってくれたことは感謝する。だが今日はもう帰ってくれ。影の邪魔は会う気はないという黎深様の意思だろう」
「絳攸…」
「百合さんには俺から話をしておく。明日の朝、出立前にもう一度説明して、きちんと分かってもらうから。俺一人が戻ることを影が邪魔することはないだろう。今から紅邸に行って軒を用意させるから、それに乗って戻ってくれ。振り回してすまなかった」

疲れた顔でじゃあなと踵を返した絳攸の腕を、楸瑛が後ろから握って引き止める。

「絳攸。ここまできてそれはないだろう」
「楸瑛」
「私にも意地がある。ここまでされたら何がなんでも紅邸に着いてやるって気になるじゃないか。それに百合さんは明日には紅州に帰ってしまうんだろう?今度貴陽に来るのがいつになるのか分からないんじゃ、やっぱり今夜お会いするのがいいと思うし。君一人じゃ誤解を解くのは難しいみたいだしね。訪問するには非礼な時間になってしまったけれど、紅尚書のせいなんだから遠慮することはないよね」
「楸瑛…」
「君はきちんと約束を守ってくれた。私も約束を守らなくては」

だから気にしないでいいと笑う。
その笑顔に救われたように、絳攸もほほを緩めて笑い返した。
万年常春で軽口ばかり叩く男だが、楸瑛という人間の義理堅いところは好きだと思う。

「それじゃ、もうひとふんばりするか。ここまでくれば、本邸はもう目と鼻の先だ」

いささか救われた気持ちで脚を踏み出した絳攸の腕を、再度後ろから伸びた手がくいっと引っぱった。

「絳攸。ちょっと待って」
「なんだ?」

まだ何かあるのか。
はやくもどらないと百合さんが寝てしまうぞと、いぶかしげに眉を寄せた絳攸を見つめ、楸瑛は困ったように笑った。

「あのね。紅邸はこっちだよ」





忘れがちですが楸瑛って武人なんですよね(オイ)


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