疲れた体を引きずって数日ぶりに紅邸に帰宅した絳攸は、玄関を塞ぐ巨大な物体に呆然と立ちすくんだ。 「なんだこれは…!」 ドーンと扉の前で聳え立っているのは、絳攸の背丈ほどもある氷塊である。 いつからここに放置されているのか。日が暮れてもむしむしと暑い外気に溶かされた氷で玄関前の石畳は黒々と濡れている。いまだ午の熱気をはらんだ夜風が心なしか涼しく感じるのは、きっとこの常識はずれに大きい氷の塊のおかげに違いない。 寄寓にもこの日、絳攸は主上から氷を賜っていた。 もちろん絳攸だけでなく、猛暑に苦しむ朝廷百官の慰めにと各部署に贈られたそれは、官吏達の心をたいそう慰めた。 しかし氷はもともと冬のもの。 ゆえに真夏のそれは非常に高価で、庶民が手に入れることなど皆無に等しい。 主上があれだけの大盤振る舞いができたのも王家の財力があってのことで、もちろん彩七家の準筆頭として名を連ねる紅家も氷室を所有している。 だから紅邸に氷があったところで驚きはしないが、問題はなぜこんなところに、こんなバカでかい氷塊が放置されているのかということだった。 (まぁ見当はつくが…) 見当どころかほとんど確信すら覚えて、絳攸はぎゅうっと眉間を指で摘んだ。 目の前に屹立しているそれは、侍郎室に運ばれてきたものとは比較にならない大きさだ。 したがって価格も桁外れに違いなく、それだけの財力を持ち合わせているものは彩雲国広しといえど多くはない。 しかも場所が紅家本邸とならば、浮かび上がってくる人物はただ一人しかいない。 (一体何がしたいんだ…あの人は…!) 黎深の奇行はいつものことだが、疲れている時には精神的ダメージが大きい。 限界に近い体力がさらに削られた気がして、思わずため息をついていると、ふいに氷塊の影から見慣れた顔が覗いた。 「あ、やっぱり絳攸ね。軒が着いたって聞いたから。おかえりなさい」 「…っ!百合さんっ!戻ってらしたんですか?」 にっこりと出迎えてくれたのは、当主代理としてあちこちを飛び回っている百合だった。 いつも忙しい百合はめったに貴陽の紅邸に居つかない。 幾月ぶりかに見た養母は相変わらず美しく、思いがけない人の登場に、ここ数日の激務でやつれた絳攸の顔がぱっと輝く。 器用に扉と氷の僅かな隙間を通り抜けた百合は、絳攸を見上げると心配そうに表情を曇らせた。 「絳攸。またちょっと痩せたんじゃない?ちゃんとご飯食べてる?」 「大丈夫です。しばらく忙しかったもので…百合さんはいつこちらに戻っていらしたんですか?」 「今朝着いたところよ。真っ先に絳攸の顔を見たいと思ってたのに、数日帰ってきていないって言うじゃない。また黎深が仕事を押しつけたんでしょう?大変だったわね」 顔をしかめ、ほんとうに困ったもんだわと腕を組んで嘆息する。 確かにここのところの激務は「大変」なんて言葉で片付くものではなかった。 元々忙しい部署ではあるが、猛暑の人手不足が拍車をかけたことはいなめない。 人格破壊が為されるともっぱらの噂の吏部だが、これでまた新しい犠牲者がでたことは間違いなく、倒れる寸前まで鬼のように仕事をこなしていた絳攸は、返す言葉が見つからず苦笑する。 (…そういえば黎深様は?) 吏部といえば、今日は昼過ぎから黎深の姿が見えなかった。 気が向けばふらふらと出歩く尚書なので、半日姿が見えなくても気にしなかったが、百合が帰ってきているのならば紅邸にいるだろう。 帰っているなら捕まえて、明日こそは仕事をしてくれるように説教しなければならない。 まだブツブツいっている百合に居場所を聞くと、肩をすくめた百合は寝所にいると教えてくれた。 「帰ってきてからずーっと不貞寝してるわ」 「不貞寝?」 「そう。今日ね、黎深、邵可様のところに行ったらしいの」 曰く、邵可のところへ匿名希望の氷塊が届いたと聞いた黎深は、負けじと紅家の氷室から氷を取り寄せて贈ったらしい。だが匿名希望さんからの氷で門をふさがれたままだった邵可に、二つもいらないからもって帰りなさいとすげなく断られたそうだ。 「それでずーーーーーっと不貞寝してるの。バカだよね」 「………。…………」 こめかみを指で揉み解しながら、常識はずれに大きい氷の謎が解けたと絳攸は思った。 (まったくあの人は…!) 匿名希望とは、まちがいなく主上のことだろう。 敬愛する兄上と溺愛する姪が絡んでいるならば、黎深が対抗意識を燃やしても仕方がない。 仕方がないが、ものには限度というものがある。 奇行の理由を知って痛む頭を押さえる養い子を見上げ、百合はやれやれと首を振った。 「それでね。ただ寝ててくれればいいのに暑い暑いって煩くって。とりあえずこの氷を割って部屋に置いたりカキ氷にしたりしたけど、結局あれはただ拗ねてるだけね。まぁ邵可様にフラれたんだから無理もないと思うけど」 きっと自分が一番と意気込んで邵可のところへ行ったのだろう。 だのに大好きな兄からのつれない仕打ち。 黎深が負ったショックはたやすく想像がつく。 (いつものことといえばそうだが…) 黎深の兄にかける想いを知っているだけに、なにやら切なくもある。 仕事をしないといえ慕う養父だ。 いつだって一方通行の黎深がちょっとかわいそうになった絳攸は、しばらく考えをめぐらした後、ぽんと両手を打ち合わせた。 「そうだ。百合さん。今日いい暑気払いの方法を教えてもらったんですが…」 続きます。 ススム/ TOP |
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