室に戻ってみると、やっぱり黎深は寝台に転がっていた。 部屋着の胸元をゆるめ、やけくそのようにバタバタと扇で扇いでいる。 まとめていない黒髪が敷布の上で乱れ、視覚的にも色彩的にも暑苦しい。 (随分伸びたなぁ…) 黎深の髪は百合が切っているため、百合が貴陽を不在にしている間は伸ばしっぱなしである。 いまはじめて気がついたそれを簡単に髪紐でまとめてやって、百合は被さるように黎深を覗き込んだ。 「黎深。絳攸が帰ってきたよ。おかえりって言ってあげないの?」 声をかけても返事もしない―――どころか閉じた目を開く様子さえない。 むっつりと扇を動かしているだけの夫を見下ろし、まだ拗ねているのかと呆れた百合は、腰に手を当てて息を吐いた。 (一度拗ねると長いんだよねぇ) 部屋の隅では夕方運び込んだ氷塊が盥の中でまだ形を残している。 絳攸が教えてくれた暑気払いの方法は、実に簡単なものだった。 説明をきいて、それは確かに気持ちがいいだろうと試しに絳攸にしてみたところ、妙に緊張した顔をしていた養い子を思い出し、百合は胸の中だけでくすくすと笑う。 歩み寄った盥の前でしゃがみこみ、嵩の減った氷塊に掌をくっつけると、ジンと手のひらが痺れた。 両手が冷えるのを待つ間、さりげない口調で背中越しに話しかける。 「黎深。君ねぇ。あんまり絳攸に仕事を押しつけるんじゃないよ?君が王に仕える気がないのはよーく知ってるけど、その皺寄せが全部絳攸にいくんじゃ、いくらなんでも可哀想じゃないか」 いったん言葉を切って背後の気配を伺ってみるが、扇の動く速度は変わらない。 パタパタと軽い音を聞きながら程よく両手を冷やしたところで、手ぬぐいで軽く水気をぬぐった百合は、ふたたび黎深を覗き込んだ。 「はい。こっちむいて」 寝台に腰を下ろして、肩を押し仰向けになるように促す。 抵抗するのも面倒だったのか、されるがままに手を止めて転がった黎深の頬を、百合は両手で優しく包み込んだ。 「ほ〜らひんやり。気持ちいいだろう?」 「………。なんの真似だ。百合」 行動に驚いたものか、掌の冷たさに驚いたものか。 目を僅かに見開いた黎深を見下ろし、にっこりと笑う。 「なにって。君が暑い暑いって煩いから冷やしてあげてるんじゃないか」 絳攸に教えてもらったんだよと付け足すことを忘れない。 「どう?気持ちいい?」 重ねて訊くと、黎深は返事のかわりに扇をパタンと閉じた。 (あ、少し機嫌が直ってきた) 寝台に仰臥する黎深は相変わらずのむっつり顔だが、かれこれ20年来の付き合いである。 表情を読むのも慣れたものだ。 いったん手を離して右手だけ額に移動させると、存外素直に黎深は瞳を伏せた。 どうやら気持ちがいいらしい。 満足そうな夫の様子に心の中で笑みをこぼしながら、諭すようにその名を呼ぶ。 「黎深」 「なんだ」 「絳攸のこと。やつれて隈もできて、すっごい顔してたんだよ。久しぶりに見た可愛い息子の顔が幽鬼みたいじゃ、私悲しくって泣けちゃうよ」 「吏部は朝廷でも指折りの多忙な部署だからな。あれの自己管理ができていない証拠だろう」 「うわー。すごい言い訳。君のこと常々厚顔だと思ってたけど改めてそう思うよ。絳攸あんなに頑張ってるのにかわいそう」 「誰が厚顔だ!」 「君に決まってるじゃん」 大げさに嘆きながら額から手を離すと、黎深の目が名残惜しそうに白い掌を追う。 その視線には気づかないふりをして、今度は自分の頬を包み込みながら百合は小首をかしげた。 「ねえ黎深。明日はちゃんと仕事をしてあげてね?」 「………」 「聞いたら猛暑で吏部も人手不足なんだって?ここで君がきっちり仕事を終わらせて吏部の皆を家に帰してあげたら、きっと喜ばれると思うなぁ。……それに邵可様だって君のこと見直すと思うよ」 いかにも無関心に聞き流していた黎深の眉が、持ち出された「邵可」の一言にピクリと動いた。もう一押しとばかりに、百合は顔の横で人差し指を立てる。 「そうそう。そうしたら君からの贈り物も、もっと素直に受け取ってもらえるかもねー。今回の氷だって、門もくぐれないような大きなのが先に届いていただけで、君が拒否されたわけじゃないし」 「当たり前だ。あ、兄上が私を拒否なさるなどあるわけがない!」 「そうだよね。可愛い弟だもんね」 「!」 「可愛い」に反応したのだろう。 黎深の目の周りがうっすらと紅くなった。 (…昔からだけど、邵可様のことになるとほんと単純だなぁ) 暑いのか、しきりに扇で顔に風を送っている夫を見ながら百合は苦笑する。 その笑みを目ざとく見つけた黎深は、ふんとばかりに鼻を鳴らすと、勢いよく寝台から体を起こした。 はずみで髪紐が解け、長い髪が胸元にすべり落ちる。 「……髪、ずいぶん長くなったね」 「お前がなかなか帰ってこないからな」 「しょうがないじゃん。忙しいんだもん。これでもなんとかやりくりして帰ってきたんだよ?貴陽も猛暑に見舞われているっていうから、旦那様と息子は元気かなぁって心配になって」 目の前で揺れている黒髪を一房引っ張ると、痛かったのか、黎深はちょっと眉を寄せた。 そのまま癖のない黒髪を指先で弄びながら、百合は瞳を和ませる。 「…でも二人ともけっこう元気そうで安心した。君にいたってはピンピンしてるし。それもそうだよね。黎深が倒れてるところなんて想像つかないし」 「お前は私を何だと思ってるんだ」 「うーん…黎深?」 全く答えになっていない返事をして寝台から腰を上げた百合を、黎深の視線が追う。 背中に視線を感じながら両手を冷やした百合は、踵を返すと、見上げてくる黎深の頬をもう一度両手で包みこんだ。 「………だからすぐに仕事にもどらなくちゃいけないけど、いいよね?」 混じりけのない黒い瞳と、空中で視線が絡み合う。 目を逸らすことなく見つめあい、じっと次の言葉を待つ。 数呼吸の後、黎深がゆっくりと瞬きしたのを合図に、視界の隅でヒラヒラ動いていた扇がパタリと閉じた。 「………髪は切っていくつもりだろうな」 「もちろん。この際バッサリといっちゃおうか。短いほうが涼しいよ〜。あ、でも黎深て短いのあんまり似合いそうにないよね」 「余計な世話だ!誰が短髪になどするか!」 「あっはっは。うんうん。それがいいよ。黎深の短髪なんて想像つかないし。だいたい私が忙しいのって黎深のせいだもんね。なのにいちいち許可をとるっておかしくない?」 仕事をしない当主のおかげで百合は各地を飛び回っているのである。 貴陽に居つけないのも元はといえば黎深のせいなのに、ご機嫌を取る必要があるのだろうか。 なんだかなと思いつつ両手を外すと、視線をそらした黎深がポツリと呟いた。 「…次はここまで伸びるまでに戻って来い」 「それは君次第だね。たまには本家の仕事もしてくれればいいのに」 むっつりと唇を引き結んだその横顔は、さっきまで兄上のことで拗ねていた表情と同じものだ。 時々妙に素直な夫に、百合はちょっと笑ってしまう。 「私の変わりに玖琅がいる。それに私は紅家なんぞどうでもいいと何度も言っているだろう」 「ハイハイ。よーく知ってるよ」 黎深の紅家嫌いは今に始まったことではない。 肩をすくめて黎深の隣に腰を下ろした百合は、コテンとその肩に頭を預けた。 「…まぁ紅家のことは玖琅と私でなんとかしておくから。気が向いたら手伝ってよね。本来なら当主の仕事なんだし」 「ああ。万が一の確率で気が向いたらな」 「うわー。まったく心の篭っていない約束をありがとう。こんなに期待できない約束はじめて」 「お前がそう言ったんだろう。それとも喧嘩を売りたいのか?」 「ううん。そうじゃないよ。ただ思ったことを言っただけ」 眉を吊り上げる黎深を見つめ、くすくすと笑う。 やってられんわと言いたげに乱暴に扇を使い出した夫を見上げて、百合は猫なで声で名前を呼んだ。 「ねぇ黎深」 「なんだ」 「忙しい合間を縫って様子を見に来てくれた奥さんに、ご褒美をあげようとは思わない?」 「思わん」 「そう言うと思った。でも却下。ご褒美ください」 くいっと長い髪を引っ張れば、やめろと迷惑そうに顔をしかめる。 それでもしつこく引っ張っていると、根負けしたように嘆息した黎深は、何が欲しいんだと眉をしかめた。 「さっき私がしてあげたように暑気払いをしてくれる?それから琵琶を弾いて。そうしたら私も黎深の髪を切ってあげるから」 「注文が多いな」 「いいじゃない。久しぶりなんだもん」 早く早くと髪を引っ張られ、黎深がしぶしぶ腰を上げる。 この私に暑気払いをさせようとは―――とかなんとか、文句がブツブツと聞こえてくるが、耳に両手で栓をしてコロンと寝台に倒れこむ。 先ほどまで黎深が転がっていた寝台は、かすかに焚き染めた香の香りがして、そのほのかな香りをゆっくりと吸い込むと、ようやく実感が沸いた。 (帰ってきたんだなぁ…) またすぐに出て行かなくてはいけないけれど。 どれだけ紅州で過ごしていても、ここが百合にとっての「帰る家」なのだ。 絳攸がいて、黎深がいて、彼の好む香を感じて――― (……うん。幸せかも) たまには自発的な帰宅もいいかもしれない。 いかにも仕方なさそうに盥の前でごそごそやっている夫の背中を眺めながら、百合は黎深に気づかれないようこっそりと幸せを噛みしめた。 黎深と百合は、意識しなくても仲良くなるので書きやすいです。 それにしても黎深、扇を閉じたり開いたりしすぎだ。 <2008/08/29> TOP |
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