「美味しいですね。絳攸さま」 「ああ。美味いな………でも良かったのか?この場所で」 食器の立てる音、話し声、笑い声、給仕の立てる足音。 酒楼の中は雑多な音が入り混じって、まるで漣のようにざわめいている。 秀麗からいつぞやのお礼ですと招かれたそこは、邵可一家が以前食事に来た店とかで、20席ほどの店内は老若男女で埋まり、ほどよい賑わいを見せていた。 さすが秀麗の選んだ店だけあって、素材の組み合わせがいいのだろう。 珍しい食材はないけれど、一品一品が納得させられる味で、美味い。 「俺は秀麗の手料理でよかったんだが…」 お世辞にも邵可邸は裕福とはいえない。 生活するに十分な録は得ているのだが、紅家の格式に沿った邸はとにかく広く、録の半分以上は低の修繕費に消えていく。 邵可邸の家計状況を知るだけに、いささか申し訳ない気持ちでいると、顔を上げた秀麗が明るく笑った。 「たまにはいいんです。それに今日はお礼なんですから、お気になさらずにどんどん召し上がってください。私、本当に助かったんですよ」 「そっそうか…それならいいが」 ニコニコと笑う愛弟子からそっと視線を外して、青梗菜をもくもくと噛む。 お礼お礼と先ほどから繰り返されているのだが、なんの礼なのかさっぱりわからない。 詳しく聞こうにも「またまた絳攸さまったらとぼけちゃって」と流されてしまい、結局いまのいままで詳しい話を聞けずにいる。 言葉の端々から拾った情報によれば、どうやら彼女が探していた本が見つかったことに絳攸が関係するらしいのだが、記憶の底をさらってもそんな覚えはない。 秀麗の勢いに押されてここまで来てしまったが、身に覚えのない事だけに、手厚くもてなされている現状が後ろめたい絳攸だった。 (やはり誤解は解いたほうがいいのでは……) がっかりされるだろうが、このまま何も知らずにもてなされるのは気が引ける。 正直にすべてを話して黙っていたことを謝罪して、そしてここの払いは絳攸がもとう。 うん。それがいい。 思い切って口を開きかけたとき、後頭部に鋭い痛みを感じた絳攸は、思わず後ろを振り返った。 (なっなんだっ?) まるで焼けつくような痛みだった。 きょろきょろと店内を見回すが、相変わらず老若男女が楽しげに食事をしているだけで、怪しい人物は見当たらない。 気のせいだったのかと視線を戻すと、箸をとめた秀麗がどうしたんですかと訊いた。 「いや、なにか視線を感じて…」 そうだ。視線だ。 口からすべり出た単語に、はっと気がつく。 痛みを感じるほどの鋭さだったが、思い返せばあれは誰かの視線だったのだ。 よほど強い思いを込められて見られていたに違いない。 なにやらぞっと寒気が走り、小さく身震いした絳攸を秀麗が心配そうに見た。 「絳攸さま?お加減が悪いのですか。お顔の色が悪いようですけど」 「いや……なにやら寒気がして」 「やだ風邪かしら。ここのところ急に寒くなったし。絳攸さま、ちょっと失礼します」 ひょいと伸ばされた手が、躊躇いなく絳攸の額に触れる。 それは母親が子供にするようにごく自然な仕草だった。 しかし秀麗の手が触れた瞬間、先ほどとは比べ物にならない強い視線を感じて、絳攸は思わず姿勢を正した。 この鋭さには覚えがある。 (………いる………っ!!!) いる。間違いなくこの店にいる。 頭どころではない。全身が焼かれそうな視線に背中が痛い。 ギギギと首をまわして後ろを振り返った絳攸は、卓を3つ挟んだ先、地味な着物に身を包んだ男女を発見して息を飲んだ。 長い髪を簡単にまとめ、淡い青の衣をまとった女性が、絳攸の視線に気づいて小さく手を振る。 「やっほー」と表現するしかない暢気な仕草の向かいでは、いまにも広げた扇を食い破らんとする表情で、見慣れた養父がこちらを睨んでいた。 黒々とした瞳が怒りなのか嫉妬なのかで底光りしている。 袖口に紅を織り込んだ渋い茶の衣をまとっているが、その背後から放たれる禍々しいオーラーは間違えようがない。 見てはいけないものをみてしまった。 というか見られてはいけないものを見られてしまった。 (それよりもなんであの人がここに!?) 庶民が仕事帰りに一杯ひっかけていくようなここは、彩七家の当主が出入りするような場所ではない。 「絳攸さま?大丈夫ですか」 「ああ…」 しかも百合まで。 くらくらする額を押さえる絳攸を、秀麗が心配そうに呼ぶ。 なんでもないと手を振って、背中を刺す視線の痛みに耐えていた絳攸は、ふといままで頭を悩ませていた疑問の回答を見出した。 (そうか。あのひとの仕業か…!) 秀麗がお礼したい人物は、たぶん養父のことなのだろう。 どういう経過があって、黎深が秀麗の手助けをしたのかはわからない。 だがお礼をしたいという秀麗に困って、絳攸を身代わりにしたことは間違いない。 そのくせ妬ましくなって後をつけてきた。 おまけに百合まで面白がってついてきたというとこか。 十割とはいわないが、自分の推理は八割がたは正解しているはずだと絳攸は確信した。 「お熱はないようですけど、やっぱりお顔の色がよくないですね。もう帰りましょうか」 「ああ……すまないな。秀麗。せっかく誘ってくれたのに」 「いいえ。じゃあ残りを折り詰めにしてもらいますね」 さすが主婦である。ぬかりない。 給仕に折り詰めを頼んだ秀麗の後から、絳攸も追加注文をする。 「それから、その折り詰めに3人分の菓子をつめてくれ。支払いは私に」 「そんな絳攸さま」 「いいんだ。途中で席を立つことになってしまったから、これくらいはさせてくれ」 「ありがとうございます」 すまなそうに眉を下げながらも、嬉しそうに笑う顔は可愛らしい。 物心ついたときから一人で、養子に入ったいまも一人っ子の絳攸には、兄妹に対する感覚が薄い。 もし妹がいたらこんな感じなのかもしれないと思うと、頬も自然と緩んでくる。 (しかし…) 背中に感じる視線はますます鋭さを増している。 妄想もそこそこにしておいて、さっさと逃げたほうが身のためのようだ。 もっとも鬼が待ち受けているだろう紅邸に戻るなど自殺行為である。 (今夜は楸瑛のところに避難しよう…) あの男を頼るのはいささか心外だが、事情を説明すれば同情してくれることだろう。 刺さるどころか貫きそうな視線を背中で受け止めながら、そっと息を吐く。 疲れた足取りで酒楼を後にした絳攸は、夜空に輝く星を見上げると、どうかこれ以上養父の妬みをかいませんようにと真剣に願った。 師弟な二人が大好きです。 まだ続きます モドル/ ススム |
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