イニシアチブがもらえない




暗闇に淡く浮かび上がるダイス型の行燈はとても幻想的で美しい。
毎夜、寝室を優しい明りで照らしてくれるそれは、オリエンタルショップの通販サイトで一目ぼれして購入したお気に入りだ。木と紙というごくシンプルな素材だけで、こんなにも美術的かつ実用的なものを作り出してしまう日本人の感覚は本当に素晴らしいと思う。
職人さんが一つ一つ手作りした一品ものは、イワンの財布事情からすればかなり厳しい出費だったが、後悔はしていない。それどころか今日ほどこの間接照明を買ってよかったと思った日はないだろう。

「なんだか照れてしまうね」

畳部屋に一組だけ敷きのべられた布団の上。
ぼんやりとした明りの中、向かい合わせに座ったキースがはにかんだ笑みを浮かべている。
行燈のおかげで雰囲気は満点、太陽にじゅうぶん当てた布団はフカフカだし、ピンと糊のきいたシーツは清潔な香りがする。枕元の籐籠にはローションもゴムもティッシュも完備済みだ。

(いざ今宵…)

恋人を迎えるために完璧に整えた室内を、いまいちど確認して。
激しく脈打つ鼓動を抑え込み、ぐっと膝の上で拳を握りしめる。

(イワン・カレリン、本懐を遂げるでござる!)





「っ! スカイハイさんっ」
「いまは名前で呼んでくれないか」
「あっすっすいません! え…っと、キ、キースさん…」

意を決して絞り出した声はみっともなく裏返ってしまった。
あわてて呼びなおすと、うん、空色の瞳が優しく緩む。
緊張しているねと微笑みかけられて、見透かされたことが気恥ずかしく、顔を伏せたイワンは正直に頷いた。

「いまにも口から心臓が飛び出しそうです…」

蚊の鳴くような声で答えて、だって、と心の中で言い訳する。

(だって、ずっと待っていたんだ、この瞬間を)

目の前の素敵な人と恋人になってはや幾月。
じりじりするほどじれったい時間をかけて、ようやく今夜という機会に恵まれた。
はじめてのお泊り。それなりの年齢であれば、することはひとつだ。
その未来予想の結果、待ちに待った瞬間に直面した頭と体は、そのまま天に昇ってしまいそうなぐらい現実感がない。

(空を飛ぶのはスカイハイさんの能力だけど、いまの拙者なら飛べそうでござる!)

なんて折紙サイクロン口調で考えてしまうのは、相当緊張している証拠だ。
実際、握りしめた拳の中はすでに汗びっしょりで、キースさんに触れる前に拭かないと、と寝間着にしている浴衣に視線を落とす。
紺色の生地は薄明りのなかで濃さを増し、ほとんど黒と変わりない。
こっそりと腿のあたりで手のひらをぬぐいながら、彼のほうはどうなんだろうと伺い見れば、照れくさそうな微笑みが返ってきて赤面した。

「実はね。私も緊張している。とても」

この日のために用意した空色の浴衣に身を包んだキースは、落ち着かなく視線をさまよわせて、最後にちょこっと小首をかしげる。
そのどこか子供っぽい仕草は、イワンの心臓をダイレクトに打ち抜いた。

(あああああああ、くっそ!可愛いでござるっ!!)

どうしてこの人はこんなにも無邪気にイワンを刺激するのか。
心の中で叫ぶと同時に、彼に対する愛情が激烈な勢いでこみ上げてきて、できることならバンバン床を叩きまくりたい衝動に駆られて悶絶する。
しかしただでさえさっきから挙動不審気味なのだ。
これ以上雰囲気を壊すわけにはいかないと、顔をふせ身もだえすることで、せりあがってくる感情をなんとか堪えていると、すぐ間近から心配そうな声が降ってきた。

「どうしたんだい? 私はなにか変なことを言ってしまっただろうか」
「いえ、全然全くこれっぽっちもおかしくなんかない、で、す…」

ただ、あなたの可愛らしさに鼻血が出そうなだけでござる―――なんてとてもいえやしない。
気力を振り絞って笑顔を向ければ、思わぬ至近距離で目が合い、ドキリと胸が高鳴った。

「あ…」
「…っ」

驚いたのはキースも同じだったらしい。
ピタリと動きをとめてしまった彼が息を飲む気配がして、二人の間に不自然な沈黙が落ちる。
ガチンとこわばってしまった体と視線は、暴れだしそうな鼓動とは裏腹に、目の前の愛しい人から離れようとしない。

「………」

胸をたたくような鼓動の中、鼻と鼻がくっつきそうな距離で言葉もなく見つめあうこと数秒。
ふ、と呼気を漏らしたのはどちらだったのか。
暖かなそれが呼び水となったように、首を伸ばしたイワンは大好きな人の唇を柔らかく食んだ。





はじまりは軽く、徐々に深くたっぷりと。
角度を変えて互いの咥内を行き来し、絡め、解き、擦り、舐めあげる。
キスが深くなるごとに体のこわばりは溶けていき、そろそろと上げた右手でキースの後頭部からうなじの生え際、耳裏をたどり耳殻をなぞると、乱れた吐息が合間にこぼれて嬉しくなる。
いつの間にか重なっていた左手から彼の高い体温を感じつつ、耳殻で遊んでいた指を首筋から鍛えられた肩まで滑らせたイワンはそろそろかなと薄目を開いた。

(このまま押し倒して…)

一気に本格的な愛撫に移りたい。
夜はまだまだ長いし時間はたっぷりとあるけれど、求める心はそろそろ限界を迎えている。
長いキスに体の一部は明らかに反応していて、背筋を震わせる情動は、まるで細かい電流を流されているみたいだ。

(愛情も労りも慈しみもいっぱいいっぱい込めるつもりだけど…)

できるなら一刻も早くこの腕に彼を抱きたい。
偽らざる本音に肩に置いた手に力が籠る。

「ん…」

互いの鼻から抜ける息が艶めかしく、湿った水音が高揚感を否応なしに煽る。
イワンより上背のあるキースを押し倒すには、情けないが斜め上から力をかけるのが手っ取り早い。
キスの角度を変えながら腰を浮かし、肩に置いた手に体重をのせていく。
そのまま重力に従って布団へ倒れてくれるはずの上半身は―――しかしなぜかちょっと後ろに傾いただけで、それ以上倒されてはくれなかった。

(あれ?)

予想と違った反応に、つかの間、舌先の動きが鈍る。

(けっこう念入りにしたと思うんだけど…)

自分的には、導入的前戯としては十分、合格点だったと思う。
だがまだ仕掛けるには早かったのだろうか。
不安になりながらキースの顔を覗き込もうとしたところで、ふいに腰に圧迫感を感じ、膝立ちの足を掬われたかと思ったら、あっという間に視界が反転した。

(えっ?)

パチッと目を開けば、視界を覆う恋人の影の向こうに、なぜか見慣れた天井が見切れている。
背中に感じるのは、今日一日念入りに干してフッカフカになった柔らかい布団の感触だ。
きょとんとしている間に、ちゅっとリップ音をさせてキースが離れていく。
行燈を背にした彼の表情は陰になって見えないけれど、耳元でささやかれた声には夜の甘さがたっぷりと含まれていた。

「……積極的なイワンくんも嬉しいけれど、できればはじめてはこちらの態勢がいいな」
「へ?」
「うん、やっぱりこっちがいい」

だってこちらのほうが君にたくさんキスできるから。
言うが早いが、こめかみ、瞼、頬に鼻先と、嬉しそうな口づけが降ってくる。
慈しみのこもったそれは愛されていると実感できてとても心地いい。心地いいのだが―――。

「ちょ、ちょっと待ってくださいっ!!」

しばらく呆然とキスを受け止めていたイワンは、首筋を舐めあげられ鎖骨に舌を這わされ、浴衣の裾を割った掌が腿の付け根を這いまわるに頃になって、はっと我に返った。

(えっ?えっ?)

何がどうしてこうなった!?
現状を把握するなり、いまにも肌蹴た胸へと降りていこうとしているキースの顎を、下から思い切り突き上げる。
ぐっ、とか、うっ、とかいう苦しそうな呻き声が聞こえたが、構わず体をひねって腕の下から逃れたところで、乱された襟を掻き合わせて恋人を凝視した。

「ちょ…、え…? どういうことですか」

いったい何が起こっているのだろう。
呆然と目を見開くが、まったくもってわけがわからない。
いままでの流れでは、自分が彼を抱くはずだったのに。
これではまるで、イワンがキースに抱かれるようではないか。
混乱と動揺に軽く息が上がらせながら、え?え?と意味のない言葉を繰り返しているイワンの視界の先では、首を抑えたキースが情けない声で唸っている。

「うっ…イワンくん、ひどい…。痛い、そして痛い」
「は、あっ! すいません、ついびっくりして……」

とっさだったとはいえ、加減なく突き上げられたのだ。いくら鍛えている彼でもダメージは小さくないだろう。
混乱も動揺も収まってはいないけれど、痛がる恋人をほっておくわけにはいかず、あわてて膝立ちでにじり寄ったイワンは、首を抑える手を優しくどかしてゆっくりと頭を倒すよう促した。

「捻っちゃったかな…、こうすると痛みますか?」
「うーん…」

ひとしきり前後左右に首をかしげ、状態を見ていたキースが軽く息をつく。
最後にぐるりと頭を回して、うん、と頷いた彼は、頭に添えられていたイワンの手をとるとにっこりとほほ笑んだ。

「とりあえず大丈夫そうだ。ありがとう」
「いいえ、そんな、もとはといえば僕のせいですし…」

万年見切れてばかりの自分が天下のKOHに怪我させるとは、それこそ切腹ものである。
大事にならなくてよかった。
ほっと胸をなでおろせば、眩しい笑みが返ってくる。
こんな薄明りの中でもきらっきら輝いて見えるのはけっして目の錯覚なんかじゃない。

「いや、私も少し焦りすぎたみたいだ。すまない。君のことになるとどうしても気がせいてしまって」
「キースさん……っ」

年甲斐もなくね、なんて恥ずかしそうに頬を染める様子にきゅーんと胸が高鳴る。
なんでこういちいち可愛い反応をしてくれるんだろう、この人は。
こんな素敵な人が自分の恋人だなんて、やっぱり夢なんじゃないだろうか。

(……って、うっとりしている場合じゃないでござる!!)

KOHのキラキラ笑顔に飲まれること数呼吸。
頬にちゅっとキスを受けてはっと我に返ったイワンは、なによりも重要なことを確認するべく、姿勢を正すと恐る恐る唇を開いた。

「あの、キースさん、ちょっと聞きたいことがあるんですが…」

そうだ、どうして始める前にきちんと聞いておかなかったのだろうか。
拙者のバカバカ段取りが悪すぎる―――なんて心の中で罵倒しながらも、とにかく彼に答えてもらわなければと身を乗り出す。
なんだい?と爽やかに聞き返してきた恋人に向かって、ゴクリと喉を鳴らしたイワンは、内面の勢いとは裏腹の控えめな口調で尋ねた。

「そ、その、あくまで確認なんですが、キースさんは上と下、どちらがいいですか…?」

上と下?
キースが軽く首をかしげて、ああ、合点が言ったように破顔する。

「抱くか抱かれるかという話かな? だったらイワンくんを抱きたいと思っているよ」
「……、……、……ですよねー…」

やっぱり、という言葉はかろうじて飲み込んだ。
さっきの流れからしてそうじゃないかと思っていたけれど、きっぱりと言い切る明快さから、抱かれる気は毛頭ないようだと項垂れる。

(どうしよう…)

目の前が真っ暗になるという言葉は、こういう時に使うのかもしれない。
自分が抱く気で入念に下準備をしてようやくここまでたどり着いたというのに、まさかの落とし穴にはまった気分だ。
そもそも浮かれて一番大切な確認を怠っていた自分が悪い。
悪いとわかってはいても、なんだか涙目になりそうで、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。

(だってこんなに可愛い人なんだし!こんな目つきの悪い根暗野郎より、どうみたってキースさんが抱かれる側だって!)

心の中だけなら八つ当たり気味に叫ぶことだってできるのに、それを声に出せないところがイワンのヘタレたる所以だ。
ちなみに恋人に言わせれば同じセリフが自分に向かってそのまま返ってくることにも、小指の先ほども気づいていない。

「イワンくん、大丈夫かい?気分でも悪いのかな」

ううー、ああー、と頭を抱えるしかないイワンに、キースが心配そうに声をかける。
大丈夫じゃないですと正直に答えてしまいたいところだが、とりあえず「なんでもないです」と頭を振って、本当にどうしよう、イワンは泣きたい気持ちで顔を覆った。

(ここで実は僕も上がいいんですなんていったら、間違いなく困った顔をするんだろうなぁ)

そんな顔は見たくない。見たくないしさせたくない。
そう思うけど。
けど。

(拙者だってキースさんを抱きたいんでござる…)

ここで主張しなかったら後で後悔することだけは確実だ。
そもそもが生殖行為なのだから、性別が男に分類される限り、自分の願望だって正当なもののはず。
どうしようどうしようと胸のなかで100回ぐらい繰り返してから、やっぱり諦めきれずに顔を上げたイワンは、一年分の勇気を振り絞って口を開いた。

「あのっ、いまさらなんですが、実は僕も抱くほうがいいんですけど…」
「えっ」

威勢がよかったのは最初だけ。
徐々に尻すぼみになりながら上目がちに恋人を見上げれば、キースは案の定、びっくりした顔をしている。

「そ、そうか…それは困ったね」

その顔がどんどん困惑していくのを見ていられなくて、うつむいたイワンの視線は再び布団とお友達になってしまった。

「ごめんなさい、最初にきちんと伝えればよかったですね」

自分の手抜かりか心底恨めしい。
確認さえとれていたならば、こんな気まずい空気に耐えることもなかったのに。
地にのめりこむ気分で、ああ、いまこそ忍者の土遁の術が使えたらと思う。
このまま地中深くに遁走して、完全に身を隠してしまえたらどんなにいいだろうか。
むしろ埋まって窒息してカムバックできないぐらい深く潜ってしまいたい。

「イワンくん、顔をあげて」
「すいません…」
「謝らなくてもいいから」

どこか方向性のずれたネガティブ思考は、頬に触れた暖かい手によって中断された。
促されて顔をあげれば、やっぱり困ったような顔でキースがこちらをみている。
反射的に目をそらそうとするイワンを、頬を包んだ両手でやんわりと引き留めた彼は、すまない、そしてすまないといつものセリフを繰り返した。

「私こそ君に謝罪しなければならないようだ。自分の気持ちばかりを優先させて、君がどう思っているか考えてもみなかったことに、いま初めて気がついたよ」
「いいえ、それは僕も同じですから」
「そうだね、私たちは互いに反省するべきかもしれないね」

ちょっと微笑んだキースにつられるように頬を緩めれば、おでこにキスが贈られる。
再び目を合わせた恋人は、柔らかく瞳を緩ませると穏やかに口を開いた。

「改めて言うよ。私は君を抱きたいと思っている。ダメかい?」
「あの、ダメかと聞かれると答えづらいんですけど…僕も同じ質問をあなたにします。僕に抱かれるのは無理ですか?」
「うーん、考えたこともなかったから…どうかな」

凛々しい眉を頼りなく下げる様子から、本当に考えたことなどなかったのだろうと窺い知れる。
けれどそんな彼を責めることはできない。イワンだってここにくるまで考えてみたこともなかったのだからお互い様だ。
土壇場まで逆の立場になる可能性に気づかなかっただなんて、自分たちはどこまでうっかり者なのか。

「実は僕たち、思い込みが激しかったんですね」
「まったくだね。そして二人とも、とても迂闊だ」
「それを言われると耳が痛いです」

互いの新たな一面を知ったことは喜ばしいが、このタイミングで知りたくはなかったと思わないでもない。
行儀悪く立膝して顔を突っ伏すと、大きな手でイワンの髪を撫でたキースが、それでどうしようかと微笑んだ。

「今夜は見送って、このままいっしょに寝るかい?」
「……いいんですか?」
「本当は続行したいけどね。君の気持ちを聞いてしまったら、自分を押し通すわけにもいかないだろう?」

顔を上げれば、空色の瞳が残念そうにこちらをみている。
キースらしい紳士的な気遣いだと思うけれど、裏を返せばそれは抱かれる気がないといっているのと同じだ。
やっぱりそうかと胸の中だけでつぶやいて、改めて思い知った本音にイワンはぎゅっと瞳を閉じた。

(キースさんの中では答えは一つなんだ)

いつも朗らかで人当たりのいい彼が意外と頑固なことは知っている。
普段はどんなことでもイワンを優先してくれけれど、いったんこうと決めたら決して自分を曲げない。
自分のなかに確かなルールを持っているところはとても好ましいが、それは時に障害になりうることもある。
たとえば今のように。

(ここで僕が折れればスムーズに行くんだろうけど)

おそらく自分のほうがキースよりも抱かれることに抵抗が少ないのだろう。
もちろん複雑だし怖くもあるけれど、心底いやとか、絶対に無理とか、そこまでの嫌悪感は感じていないことは確かだ。
しかし残念ながら、恋人を指摘できない程度には、イワンもまた頑固だった。

(かといって、納得できないままに流されることはできないでござる!)

というより、したくない。
キースを好きか嫌いかじゃなく、これはイワン個人のプライドの問題だ。
今夜は最初から彼を抱くつもりで準備していた。そのこだわりもイワンを縛っている。
しかしその一方で、いまを逃せば次はいつになるかわからないもどかしさが焦りを呼んで落ち着かない。
キスだけ、ハグだけで満足できる段階は、今夜を迎えた時点で振り切ってしまった。
抱かれるにしろ抱くにしろ、彼を直接感じたいと全身の細胞が悶えている気がする。
つかの間、矛盾する葛藤を繰り返した結果、すうっと息を吸い込んだイワンはくわっと目を見開いた。

(よし、決めた!)

自分も男だ。
ぐちゃぐちゃ悩んでいないで賭けに出てみるのもいいかもしれない。
慎重なところが自分の取り柄だと思っているけれど、考え過ぎて結局ネガティブにはまるワンパターンを繰り返すぐらいなら、いっそのこと神のみぞ知る結果に身をまかせたほうが、どちらに転んでも納得できそうだ。
腹を据えて顔をあげれば、ずっとこちらを見ていたらしい瞳と視線がかちあった。
ぐっと覇気をこめて見つめれば、なにかを感じ取ったのか、キースの背中も自然と伸びる。
わずかの間、その顔を見つめて。イワンはおもむろに頭をさげた。

「気遣ってくれてありがとうございます。でも僕も、できればこの機会を逃したくないと思ってるんです」
「イワンくん…いいのかい?」
「いえ、そうじゃなくて」

先走りそうな恋人をびしっと制して、待て、を指示するように手のひらを突きつける。
大型犬よろしくストップをかけられた恋人は、決闘を申し込む武士のごとくきりっと眉をつりあげたイワンを目を丸くして見つめた。

「―――なので、ここは勝負をして、勝ったほうが上ということでどうですか?」
「勝負?それはなにで決めるのかな」
「ジャンケンです」
「ジャンケン?」

聞きなれない言葉にキースがぱちぱちと瞬きをする。
先日ワイルドタイガーさんに教えてもらったんですと前置きして、イワンは簡単にジャンケンのルールを説明した。
石より紙が強くて、紙より鋏が強くて、鋏より石が強い。
単純だが瞬時に勝ち負けが決まるところが面白いんですと付け加えると、興味深そうに拳の形を変えていたキースがにこやかに頷いた。

「わかった。君がそれでいいなら私は構わないよ」

恨みっこなしの一発勝負ですよと念を押せば「正々堂々とだね。いいだろう。受けて立とうじゃないか」と破顔する。
さすがどこまでいってもKOH。
賭けの内容こそアレだが、その笑顔のなんて爽やかで清々しいことだろう。

(さすが拙者のスカイハイさんでござるぅっっっ!)

なんて厚かましいことを思ってしまうぐらい大好きなのはとっくの昔に自覚済みだ。
だが感動も惚気もそこそこにしておかないと、いつまでたっても本題に入れない。
気を抜けば笑み崩れそうな頬をパンと両手ではたき、気合をいれ直したイワンは、姿勢を正すと改めてキースに向き合った。

「それでは最初はグーのかけ声の後に、手をだしてください」
「了解した、そして楽しみだ」
「行きますよ。最初はグー。じゃんけん―――」

だが悲しいかな。この時のイワンは少しも気づいていなかった。
神の前では皆平等といいながらも、天使には神様の加護があるということに―――。



***



「また負けた…っ」

呻きながら項垂れるのはこれで何度目だろう。
すでに両手両足では数えきれない。恋人の手と足も借りてようやく足りるかというところか。

「それじゃ、今日も私が上だね」

思わずベッドに突っ伏してしまったイワンに、にっこにっこしながら腕をのばしてくるキースは上機嫌だ。
亀のように丸くなってしまった体をいとも簡単にひっくり返してぎゅっと抱きしめる。
はやくも髪やこめかみに降ってくるキスを受け止めながら、いまではすっかり見慣れてしまった恋人の寝室の天井を、イワンは遠い目で見あげた。

(なんでこんなことになっちゃったんだろう…)

きっかけは初めての夜、ベッドでのイニシアチブをジャンケンで決めたことに由来する。
その時の結果はキースが勝ち、イワンが負けた。
本音をいえば逆がよかったのだけど、それはそれ。
自分で決めたことだし腹をくくってキースに身を委ねたところまではよかったのだが、なぜか二回目以降も主導権はジャンケンによって決定されることになり、そうして連戦連敗を更新しつづけて今に至っている。

(思い返せばあれがすべての始まりだったんだなぁ)

いまとなっては懐かしい記憶だ。
当時はとても真剣だったジャンケンも、いまでは情事のあいさつ的な意味合いしかない。

「イワンくん?」
「うわっ」

遠い日のやりとりをぼんやりと思い返していたら、突然耳たぶを食まれてびくっと体がすくんだ。
反応を楽しむように腰骨で遊んでいた掌が、あばらを辿り昇ってくるのがこそばゆい。

「もう、くすぐったいですよ」

肩に覆いかぶさるフカフカの金髪に指を絡めてくすくす笑うと、ちゅうと悪戯っぽく首筋を吸い上げられる。
本格的な愛撫に入るまでのじゃれあいの時間は、いつも温かくて心地よい。
愛しい人を抱え込むように首裏に腕を回して、イワンは空色の瞳を覗き込んだ。

「キースさん」
「ん、なんだい」

顔を上げた彼の瞳はいつも通り柔らかく緩んでいる。
その瞼に愛情のキスを一つ贈り、きゅっと唇を尖らせる。

「僕、すごく不思議なんですけど。なんでそんなにジャンケン強いんですか」
「そうかな?」
「強いですよ。その証拠にあれから僕は、ずっと連敗してるじゃないですか」

あなたばかり不公平ですと頬を膨らませれば、なんでだろうねと朗らかな笑みが返ってくる。
邪気のないその笑顔がどこまでもキースらしくて、やっぱり可愛いなぁと思う反面、ずるい、と思わずにはいられない。
ついさっきの勝負を思い出しながら、イワンは小さく肩をすくめた。

「今日こそは、いままでのパターンから考えてスカイハーイ!でパーだと思ったのに」

しかし予想に反して繰り出された拳はグーだった。
どうしてこうなると目を見開くのもこれで何度目かわからない。
納得できずに、ぶつぶつ愚痴をつぶやいていると、宥めるように髪を掌が撫でていく。

「すごいな、イワンくん。もしかして私の今までの手を覚えているのかい?」
「全部じゃないですけどね。予測できる程度にはそれなりに。………でも当たったことないですけど」

後半、拗ねた口調になってしまった気持ちは察してもらいたい。
もともと擬態というNEXT能力を持つイワンは、人間観察力に優れている。
対象の行動パターン、仕草、本人ですら気がついていない癖までも再現できなければ、完璧な擬態はできないからだ。
ゆえに勝負のたびに注意深くキースを観察し、次回の参考にしているのだけど、なぜかことごとく外れてしまう。
おかげで最近、イワンの自信はちょっぴりへこみ気味だ。
どうやって手を決めているんですかと尋ねれば、イワンの胸の上で、楽しい秘密を抱えた子供のような顔でキースは笑った。

「うん?それは内緒だ」
「ええー。教えてくれてもいいじゃないですか」
「ははは、大したことではないよ。あえて言うなら直感かな?」
「え、それって行き当たりばったりってことですよね」

内緒もなにも、直感と答えた時点で何も考えていないことは明らかだ。
なんですかそれ、と吹きだして、そっか、この人、天然だったと苦笑する。
天然、それすなわち野性。野性、それすなわち直感力だ。

(そういえば優秀な野性は理性を凌駕するって、誰か言ってたっけ)

誰だったかなと記憶を辿っていると、イワンの意識を引き戻すように頬を指先で擽られる。
くすぐったいですと眉をよせたところで、手を引っ込めたキースは、イワンの上から降りると、隣にひじをついて寝ころんだ。

「まあ、そうとも言えるかな。毎回イワンくんの顔をみてから、出す手を決めているしね。行き当たりばったりは正しいかもしれない」
「え、僕の顔を見て……ってことは、もしかして顔にでてました?」
「いいや、そんなことはないと思うよ。ただなんとなくこうかな、と思うんだ。それだけの話だよ」
「それだけって…」

どんだけ優秀な野性なんですか、という突っ込みは飲み込んでおく。
そんな根拠のない方法で毎回完璧に手を読んでくるなんて、ある意味神がかっているとしか思えない。
しかしこの人ならもしかしてと思えてしまうところがある人、それがキースだ。

(まさか本当に神様の守護があったりして)

なんてね、と思いつつも、巷のファンの間では天使などと呼ばれていることも知っている。
ちなみにスカイハイファンをこじらせているイワンも、その呼び名には深く賛同している一人だ。

「そんなの、もう絶対に勝てないじゃないですか」
「絶対かな」
「絶対ですよ」

やっぱり不公平だと愚痴りながらも、イワンの瞳は笑っている。
おそらくジャンケンで勝敗を決する限り、イワンにイニチアシブが回ってくる日はこないだろう。
それが悔しい時期もあったけれど、正直いまはもう、どちらが上でも下でもいいような気もしている。

(だって好きなんだし)

そう、好きだから。
たとえ抱く側でなくとも、肌を合わせていることに幸せを感じられるならば、結局自分はどちらでもよかったのかもしれない。
キースの唇が好きだと思う。
しっかりとした指をもつ手が好きだ。ちょっと羨ましいほど太い腕も、広い背中も、鍛え上げられた腹筋も、耳元で名前を呼んでくれる耳障りのよい声も、限界を迎えたときに毀れるぞくぞくするような小さなうめきだって。
かなり天然の入った性格だって愛しいし、笑顔なんか誰よりも可愛く輝いて見える。
そんな彼が自分だけを見つめて、イワンだけに触れることを許してくれる、そんな特別な時間の積み重ねは、イワンの抱えていた拘りをほぐして溶かしてしまうには十分すぎた。

(好きだなぁ…)

好き。
好きだ。
惚れたほうが負けなんて言葉もあるけれど、昔の人はうまいことを言ったものだとしみじみ思う。

「やっぱりあなたにはかなわないです」
「そうかい?私は君にかなわないけどね」

心のままに息をつけば、さらりと恥ずかしいセリフで返される。
少し前なら赤面していた天然発言にもかなり慣れた。
何事も慣れが肝心だと、これまただれが言い出したかわからないことに胸のなかでしっかりと同意して。

「ありがとうございます」

照れ隠しに唇を押しつけると、すぐさまキスが返ってきて、あっというまに深さを増したそれは、じゃれあいの終わりを告げていた。



そして今日もイワンは幸せを噛みしめる。



おわり



タイバニ初書き
ピクシブ用を再up
折紙が大好きすぎて生きてくのが辛い
(2011/11/08)


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