「これはまたひどい形(なり)だねぇ…」 来客の報告を受けた楸瑛は、客室に現れた絳攸の姿を見るなり呆れた声をだした。 「途中で雨が降ってきたんだっ。さっきまであんなに晴れてたのに」 濡れ鼠。そんな言葉がぴったりである。 頭のてっぺんから爪先までぐっしょりと濡れそぼった男の衣からは、 ひっきりなしにポタリポタリと水滴が床を打っている。 どうりで報告にきた家令が困惑顔をしていたわけだ。 「とりあえず着替えて。そのままでは風邪を引くよ。いま湯を沸かさせるから」 「すまないな楸瑛。世話をかける」 「いいよ。こんなときに遠慮はなしだ」 気が引けた顔で袂を握っている友人に微笑んで人を呼ぶ。 すぐさま顔をだした使用人から厚手の布を受け取って、 かわりに着替えと湯の支度を命じた楸瑛は、ガシガシと頭を拭き始めた絳攸を振り返った。 「それで何があったんだい?たしか今日は秀麗と食事だったはずだろ」 「ああそうだ……って、なんでお前がそれを知っているんだ楸瑛」 「うん?ちょっと小耳に挟んでね」 正確には劉輝の設置した恋の目安箱で知ったのだが、詳しい話をしていいものかどうか。 判断に迷い言葉を濁すと、絳攸は疲れたように息を吐き出した。 「まぁいい。お前の言うとおりだ。秀麗と食事だった。だが……」 「だが?」 「そこに黎深様と百合さんが来て」 「あー………」 やっぱりあの投書は紅吏部尚書のものだったらしい。 そんな気がしていたんだと思いつつ、投函されていた文面を思い出す。 『腹が煮える思いです』 黒々とした墨蹟も憎憎しげに、簡潔な一文でまとめられた感想からは怨念が滲み出でいた気がする。 息子を代理に立てたものの我慢しきれずに様子を見にいった―――たぶんそんなとこだろうと納得して続きを待つと、 詳しい説明は省くがと前置きした絳攸は、ぼそぼそとこれまでの経緯を語りはじめた。 「酒楼でお二人の姿に気がついたんだが、俺には黎深様の前で秀麗と食事をする胆力はない。だから早々に店を出て秀麗と別れたんだ。 でも紅邸に戻れば黎深様がいるし……だからせめて今夜ぐらいはお前のところに泊めてもらおうと思って軒を向かわせたんだが……」 「賢明な判断だね。それで?」 「藍区に入った途端、突然馬が暴走した」 絳攸曰く、何がきっかけだったのか、御者の制止も聞かずに散々走り回った馬はついに泡を吹いて倒れ、 仕方なく軒を捨て歩くことにしたところ、いくらもいかないところで突然激しい雨が降り出したのだという。 傘を買おうにも店は閉まっているし流しの軒は見つからないしで、藍家に到着したときにはすっかり濡れてしまった。 「それは災難だったねぇ…」 徐々に小さくなっていく語尾に比例するように薄い両肩が落ちていく。 最後にはとうとう俯いてしまった絳攸の背中を、楸瑛は労わりを込めて優しく撫でた。 「今夜は綺麗な月が昇っていたのにね。突然雨が降り出すから私も驚いていたんだよ。 あっもしかして………吏部尚書の呪いだったりして」 「恐ろしいことをいうな楸瑛!ありそうで怖すぎる!!」 短い悲鳴を上げて身を守るように両腕を抱きしめた絳攸は、本当に怖がっているようだ。 「ごめんごめん。それにしてもまるで池にでも飛び込んだみたいだね」 濡れて緑を濃くした衣からはまだ雫が落ちている。 一緒に衣の雫を搾ってやっていると、入室をおとなう声と共に使用人が漆の平盆の載せた着替え一式を運び込んできた。 「私の普段着だけど、いいかな?」 「すまん。助かる」 濃い藍の着物を差し出しせば、よほど気持ち悪かったのだろう。 絳攸は早速帯に手をかけ衣を解きはじめた。 (うーん。ここは目の保養と喜ぶところか…目の毒と思うところか) 同性なのだから関係ないだろうとばかりに、衝立も使わずにさっさと衣を脱いでいく。 床に濡れた布地の落ちる湿った音が室内に響き、男らしい脱ぎっぷりを眺めながら少しばかり逡巡した楸瑛は、背中を向けることで視線を外した。 (まだ友人まだ友人……) 呪文のように胸の中で繰り返してみる。 絳攸に対する感情はとっくに友人の域を超えてしまっている楸瑛だが、逆もしかりというわけではない。 常々鈍感な絳攸の態度にもどかしさを感じる日々だが、意地っ張りな彼が珍しく自分を頼って来てくれたのだ。 こんな夜にまで欲望に忠実になることはないだろう。 そのくらいの余裕がなくては絳攸とは付き合えない。 (そうだ。湯の前に……) ただボーっと待っているのも手持ち無沙汰だ。 冷えている身体を少しでも温めてやろうと茶道具を引っ張り出した楸瑛は、二種類の茶葉を片手に絳攸を振り替えった。 「絳攸。君はどっちのお茶が…」 いい?と振り返ったつもりだった。 ―――が、問いかけは寸でのところで声にならなかった。 振り返った楸瑛の視線に飛び込んできたもの。 それはいままさに脱がんとされている絹の下着だった。 ゆらゆらゆれる蝋燭の灯火に照らされ、薄暗い室内に白く浮かびあがったそれは、絳攸の身体にピタリと張りついている。 巻きつくように張りついた布地は身体の線をくっきりと際立たせ、腕を動かすたびに肩甲骨が動く様子までもがはっきりと伺える。 直接でない分、妙に艶かしく感じるその姿に思わず見入っていると、肩から下着を剥ぎ取った絳攸が、ふいにこちらを振り返った。 「なんだ楸瑛。なにをジロジロ見てるんだ」 「あっ………いや」 艶かしい姿につい惹きつけられてしまった。 ごめんだかすまないだか、口の中でもごもごと謝ってコホンと咳払いを一つ。 「君があまりにも艶っぽいから」 白い両肩を惜しげもなく晒している絳攸から微妙に視線をずらして軽口を叩くと、即座に怒りを含んだ声が返ってきた。 「相変わらずお前の頭の中は色事のことしかないようだな。いっぺん豆腐の角に頭をぶつけて来るといいんじゃないのか」 「いやいや本当のことだよ絳攸。まったく、そんな無防備な姿を晒すのは私の前だけにしてほしいものだね」 「そうか。わかった。殴られたいんだな。よしっ!望みどおり殴ってやる!」 座った目をした絳攸が着替えの入った平盆を振りかぶる。 あれを投げられてはたまらない。 避けることは簡単だが、避けたら避けたで部屋が惨事だ。 冗談だよと笑っていなした楸瑛は、両手に持った茶筒をよく見えるように絳攸の前につきつけた。 「ところでこのお茶どっちがいい?どちらも身体を暖める作用があるけど、香りが違うから」 「………右」 「了解」 素早く銘柄を確認した絳攸ににっこりと微笑んで、手馴れた仕草で茶を淹れる。 生粋の貴族であるけれど、秀麗のおかげですっかり茶を淹れるのが美味くなってしまった楸瑛である。 着替えた絳攸の前に透きとおった色水色が美しい緑茶を差し出すのと、 湯が沸いたと使用人が呼びに来るのはほとんど同時で、 扉の向こうからかかった声に耳を済ませた楸瑛は、頃合を外してしまったねと苦笑する。 「せっかく淹れたけど無駄になってしまったようだね。はやく温まってくるといい。 その間に濡れた衣の始末をしておくから」 微笑んで扉を指し示すと、すぐに湯殿に向かうと思われた絳攸は、卓を挟んで楸瑛の向かいに腰を下ろした。 「絳攸?」 「この一杯を飲むぐらいの時間はあるだろう。それとも藍家の湯殿はそんなにすぐに冷めるのか?」 「ははは、まさか。兄上達が力をいれて改築したからね。紅家のものよりも冷めにくいと思うよ」 「どうかな。うちの湯殿も黎深様の力作だ」 「それはすごい」 どちらともなく笑って白磁の茶器に口をつける。 ふと沈黙が訪れた室に、庇を雨粒が叩く音が響く。 規則正しいそれを聞きながら、絳攸のこういうところが好きなのだと思った。 (人の好意を無駄にしないところがね) 奉仕されることに慣れている人間には当たり前すぎて忘れがちだが、 絳攸にはかけてもらった好意や温情に対して真摯に応じる姿勢がある。 良くも悪くも貴族に染まっていない彼は、紅家本家の養子であっても貴族の間では少しばかり異色な存在だ。 それが楸瑛にはとても好ましく感じるし、だからこそ惹かれるのだろうかと思い、いいやと思いなおした。 きっと彼が貴族だろうと平民だろうと「李絳攸」であるかぎり、楸瑛にとって特別な存在になることだろう。 「それでは湯殿を借りるぞ」 「ああ。ゆっくり温まっておいで」 茶を飲み干した絳攸が腰を上げる。 衣擦れをさせて立ち上がった絳攸には、楸瑛の衣は少しばかり大きかったらしい。 手の甲まで隠した袂を翻し退室しようとした背中を呼び止めると、濡れた髪をうっとおしそうに払った絳攸がなんだと訊いた。 「絳攸」 「ああ」 「今夜、私のところに来てくれて嬉しかった」 「………」 振り返った絳攸の目が、気まずそうに泳ぐ。 一寸沈黙した彼は、目を逸らしたまま言い訳をするようにぼそぼそと呟いた。 「………他にいくところが思いつかなかったんだ」 「うん。それでもだよ」 絳攸の世界は黎深を中心に回っている。 誰も黎深の代わりにはなれないし、他に誰がいなくとも黎深の傍で彼の役に立つことができさえすれば絳攸は満足なのだろう。 その結果彼は黎深のほかに頼るべき人を知らず、また必要としていない。 そんな彼が困ったときに自分を思い出してくれた。 それだけで素直に嬉しいと思う。 「私を思い出してくれて、嬉しかったよ。絳攸」 重ねて微笑むと、束の間楸瑛をみつめた後、絳攸は無言で室を出て行った。 室の扉が閉められる軽い音を聞きながら、友人の飲み干した茶器に静かに指を伸ばす。 薄い白磁の器を指先で撫で瞳を閉じた楸瑛は、瞼の裏に浮かんだ愛しい人に向かって胸の中でつぶやいた。 絳攸。 私はなにも君の大切な人と張り合おうと思っているわけじゃないよ。 ただ。 ただもうすこしだけ。 私を必要としてくれるともっともっと嬉しいんだけどね。 どんどんワケがわからなくなったとか…orz TOP |
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