「あ、けっこう広いね」 ガランとした空虚な空間に、楸瑛の暢気な声が響く。 タイル張りの玄関から短い廊下を抜けて、南面にベランダと大きなガラス窓をもつリビングへ。 対面式のキッチンをざっと眺めて、続き間の洋室を覗けば、張り替えられたばかりの白い壁紙が、午後の光を眩しく反射している。 窓の外に見えるのは張り出したベランダと、その下には小さな公園。そして植樹された木々の天辺の部分。 向かいのマンションでは、ずらっと並んだ玄関前の廊下を親子連れが歩いている。 一旦廊下に引き返し、今度はキッチンの裏手にあるバスルームへ。 この部屋のウリだという風呂場は、なるほどセパレートタイプの広い浴槽が魅力的で、背の高い楸瑛でもゆったりと寛げるサイズだ。 バスルームの隣にはウオッシュレット付きトイレ。 そして廊下を挟んで北向きの洋室がもうひとつ。 あわせて2LDKの物件は仲介業者がオススメというだけあって、こじんまりとしつつもなかなかに住み心地がよさそうだ。 「どう。気に入った?」 一通り見て回ったところで声をかけると、もう一度トイレを覗いていた絳攸が振り返った。 「まあまあだな。お前はどうだ」 「うーん、正直、私にはよくわからないんだけど」 生まれてこの方、実家から出たことがない楸瑛には、間取りのよしあしなど分からない。 君が気に入ったんならいいよと返すと、それもそうだと思ったのか。 わかったと一つ頷いた絳攸は、営業を伴ってリビングに戻っていく。 その背中を見送って、開きっぱなしの洋室を振り返った楸瑛は、なにもない空間を改めて見回した。 (あの様子だとここに決まりそうだね) 他にも二件見て回ったが、この物件を見ているときが一番いい顔をしていた。 駅からもそれなりに近く、家賃もさほど高くない。 その分築年度が古いようだが、内部はリフォームされており綺麗だ。 開きかかっていた扉を押せば、音もなく開いた向こうに、明るい陽の差し込む大きめの窓。 北側は外部通路に接するため、西側に設けたのだろう。 近寄って覗いてみると、すぐ側を通る道路と一軒家の低い屋根、そしてすこし先に広めのグラウンドを持つ学校が見えた。 ちょうど授業の終わる時間なのか、風にのってチャイムの音が聞こえる。 懐かしい音色に耳を傾けながら、まだ日焼け一つない壁紙をさーっと撫でた楸瑛は、ふと口元を綻ばせた。 「なかなか住みよさそうなところだね」 さして広くなくてもいい。 快適で、二人だけの時間を楽しめる場所を見つけたい。 一緒に暮らす部屋を探そうと言い出した楸瑛に対して、ちょっと驚いた顔をした絳攸は、しばし沈黙した。 まさか断られるのだろうか。 不安が胸をよぎり、是非のない沈黙に耐え切れなくなった頃。 お前に家事ができるのか、と聞いた彼は、その直後、少し笑って付け足した。 「俺の指導は厳しいぞ。一人前になるまできっちり覚えてもらうからな」 「楸瑛、ここにすることに決めた」 背中越しの声が、物思いにふけっていた意識を浮上させる。 振り返ると廊下に立った絳攸がこちらを見つめていた。 「わかった。決まってよかったね」 「なんだ、人事みたいに。ここにはお前も一緒に住むんだぞ」 「あ、そうか、ごめん」 むっとしたように眉をひそめられて、失言にちょっぴり苦笑する。 そうだ。ここに決まったということは、これから楸瑛はこの部屋で生活することになるのだ。 絳攸と一緒に、感情も記憶も出来事も―――様々なことを共有しながら、二人だけの生活がスタートする。 「これから店に戻って契約するからな」 「営業の人は?」 「いま車を廻しにいっている」 玄関に戻って靴を履きながら訪ねると、あっさりとした返事が戻ってきた。 そう、と一つ頷いて、いまにも出て行きそうな体を腕を廻して引きとめる。 「こら、ふざけるな」 「ふざけてないよ。嬉しいだけ」 「楸瑛」 「はいはい。わかりました」 睨んでくる絳攸の視線は冷たい。 場所を考えろと目で釘を刺されて、楸瑛はしぶしぶ腕を引いた。 はっきりいって物足りないが、続きをやるのは本当に引っ越してきてからでも遅くない。 その時は存分にいちゃいちゃさせてもらおうと密かに決めて、バタンと扉をしめる。 営業から預かったのだろう。 鍵をしめた絳攸の手の中で、キーホルダーと触れ合った金属が高い音をたてた。 一旦施錠された扉が再び開かれる時、この部屋は二人の家になっている。 まだ真っ白の壁紙も。 がらんとした室内も。 空虚な空間を二人の歩いてきた記憶と過去と、そしてこれからで一杯に埋めて。 いつしか二人の色に染まるだろうこの部屋は、いまは静かにその時を待っている。 同棲お題20「01.引っ越し」 (2011/01/18 収納) menu |
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